無いものを求めて泣くことは惨めですか

 

2月28日、タコパをした帰り、化粧を落として、パジャマを着てテレビを付けたら、大家族のドキュメンタリー、的な、ものがやっていて。

 

いつもは苦手で見ないようにしているのだけれど、昨日は何故か、見入ってしまって。

岸田さんという家族は両親と子供が沢山いて、それで、住んでいる家が燃えてしまって、生活にもお金にも困窮してしまって、ただ、そんな状況を子供たちに言わなかったと。

子供たちの前では常に笑顔でいて、周りの人や親戚の手助けによって、家は再建させることになり、また新たに建築されたいえに、家族は戻った。

 


そのご、長女が結婚したり、一人一人と、家庭を離れていく中で、年少組の少年が2019年の家族写真ではGUCCIのキャップを被っていたり、時の流れと共に各々の自我の芽生えを感じ、心が浄化された。

 

そしてたどり着いてしまったのが、私のお父さんは、私のお母さんに出会わなければ、出会ったとしても直ぐに別れていれば、今もどこかで元気に、上記で記したような家庭をどこかで作っているのかもしれない。

 

でも、そしたらひよちゃんは産まれないんだよ、という反論が出てきそうだが、その可能性はない訳では無いのだ。

私の父親は未確定であることを、日々かみ締めている。それは遺伝子的な話で。

 


私、ひよちゃん、という存在は確実にどんな世界であろうと存在する。遺伝子的に誰が父親か、というのは私に関係はなく、私の言うお父さん、という人はたった1人であるのだ。

 


昨日は、わんわん泣いた、もし、お父さんが、違う家庭をつくり、今もどこかで元気に過ごす事が出来ていたら、私と出会わなくなたっていい、私のことを知らなくたっていい。

ただ、笑顔で毎日を過ごすお父さんが、この世に存在するのなら、わたしは、本当に幸せなんだ。家庭を作っていなくても、好きなことをして、友達がいて、毎日健康に美味しいご飯を食べているお父さんが同じ世界の空気を吸っている事実があれば、私は安心して眠れる。この世界に色ができる。

 


さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう