のアパートの近くには、中学と高校が2個あって、たまに吹奏楽部の音が聞こえる。
朝起きると、何かの準備運動の音も聞こえる。いちにいさん、と数えている。
朝と夕方には、パトロールの警察官がグルグルと近所を回っていて、たまに、夜道では危険だからイヤホン外してね、と、声をかけられる。
駅前のコンビニは朝と夜も学生たちでパンパンで、外で買い食いをして、ずっと何かを話している。
顔を覚えたりする訳では無いけれど、どの生徒も部活を頑張ってるみたいで、でっかいエナメルのバッグに手づくりのお守りを沢山つけている。
それを、交番の人は見守っている。
駅のホームに行くと、よく、何時間話し込んでいるんだろうという女子たちがいる、よく泣いたり、していて、外見や泣き方で、理由が何となくわかる。
わたしが学生のころ、友達の前で見せた涙は、沢山あったし、色んな涙を遠巻きにも、身近にもたくさん見た事を思いだす。
多感、思春期、なんて気持ちの悪い単語で表されるけれども、小さな社会の中でたくさんの涙を流す空感は異様で、恐ろしい。
最近になって、中高生の幼さに気付き、彼女彼らの一挙一動が目に入る。
単純に守ってあげたいし、辛い涙を流して欲しくない。
あきらかに試合に負けた女の子がホームで泣きながら、友だちに慰められている様子をみて、その姿には自分も寄り添うことが出来、とても安心した。
1号車の近くの柱によりかかり、電話をしながら下を向き泣いていた女の子は、1人で、もう、最終電車の時間だった。
わたしにできることは何も無いな、とかんじた。
あのころ、自分が何が苦しくて泣いているかも、何でつらいかも分からないままのことが沢山あった。だから、一人で泣いている子にどうしたの?と声をかけたって、その子もにもわからないだろう。
無知の知、にも達していない感情と、数時間後にはまた同じ席に座って同じことを繰り返す時間。
たったそれだけの事の中に、自分が壊れそうなほどの隙間があるのを覚えている。